幸せって何だろう?
持っている物や地位から得られるものではないことは確かです。
あまりにも暇すぎたから幸福について考えた
大学を卒業したら銀行マンになって、若いうちに出世して職場内で結婚して家庭を持つ。 就職活動を始めたばかりの大学生の頃の私は、そんな漠然とした将来を思い描いていました。
ところが現実はそんな未来とは真逆に振れ、私は大学卒業と同時に無職のニートになりました。 幸福について深く考え始めたのはその頃です。
普通に働いていたら、きっと日中は忙しく動いて、家に帰ってきたら疲れてすぐに寝てしまって、何かについて深く考える時間もなかったのではないかと思います。
ですが一日中家にいて時間が有り余っていたので、否が応でも将来について考えざるを得なくなります。
この頃ほど人生について深く考えたことはないと思います。きっとこれから先も、あの頃ほど人生について考えることはないと思います。
これから話す話は、
私がたどり着いた人生における幸福についての一つの見解です。
皆んな幸せになりたいって口を揃えて言うけれど、幸せって一体何だろう?
学校の先生に相談したら「そんなこといいから勉強しろ」と言われそうなことですが、私にとってこれはすごく大事なことでした。
なぜなら、定義できないものを追いかけることはできない、と私は考えていたからです。
「幸せになりたいって、空に浮かぶ雲を掴みたいってのと同じなんじゃないか?」
皆んな口を揃えて、
幸せになりたいって言っている。
幸せそうに見える人たちも、話してみたら愚痴ばかりの人生を送っている。 誰もが幸せを求めていて、でも手に入れられないから、書店に山積みになる自己啓発本が一向になくならない。
「皆んな何を求めているのだろう? 皆んなどこに向かっているのだろう?」
ここから私の思考の旅は始まりました。
幸せは夜の街にあると思った
子供の頃から夜がすごく好きでした。
いつも深夜遅くまで起きていて、朝方になってから眠る。
20歳になってからは、同じように夜が好きな人たちが集まるというのもあって、よくクラブで遊んでいました。
テキーラや女の子、爆音で流れる音楽は、将来の不安を何処かに追いやってくれて、それがすごく心地良くて、何度も何度もクラブに足を運びました。
お酒を飲んで踊っている時は、まるで自分が単細胞生物になったようで、でもそれがすごくしっくりときて、「自分の生きる場所はここだ」といつも思っていました。
ところが問題だったのは、快楽には副作用が伴うということです。 泥酔して「楽しい」と思うほどに、お酒がない時間に退屈を感じるようになりました。 楽しく踊れば踊るほど、退屈な日常がやってくることに恐怖を感じるようになりました。
そしてまた、目を背けられない現実もありました。 ニート時代、夜の街でたくさんの人たちに出会いました。ごく普通のサラリーマンから東大に通う女子大生まで、いろんな人たちに出会いました。
「日常に何かが足りない気がする」というのが、夜の街で生きる人たちの共通点でしたが、私と彼らとで、決定的に違う点が一つありました。
それは、彼らには日常があって、私にはなかったことです。
それは、彼らには生きる場所があって、私にはなかったことです。
夜の街で遊んでいればずっと幸せでいられるのだろうか?
酩酊して呂律が回らなくなったこの状態が、自分の幸せなのだろうか?
「その他」の人間
夜の街にさえ自分の居場所はないのか…
夜の街で粋がっているのは、若い大学生や金を持った奴ら、群れたサラリーマンたちで、そのどこにも私は属していませんでした。多くの場合人のアイデンティティは所属する組織に帰属します。
ちょっと待てよ、
あれ?自分って一体誰なんだろう?
あるお店の会員カードを作った時のことです。
職業欄にチェックを入れる箇所があったのですが、どこにも属していなかったのでチェックを入れる箇所がありません。そこでチェックを入れることになったのが、「その他」の項目でした。
いろいろな場所に行って、いろいろな人と話してみた
自分には何もない。空っぽでつまらない人間だ。
お酒に酔っている時は、その場のノリで「イエーイ」とかやったりするけれど、昼間のカフェじゃ相手をくすりとすらさせられない、語るべきことが何もない人間なんだ。
同世代の人たちは、皆んな真面目に働いて、給料をもらって好きな物を買っている。でも自分は自分を定義する言葉さえ持たない空っぽの人間だ。
どこかに行って、誰かと話していれば答えを教えてもらえると思っていたのかもしれません。相変わらず夜の街にしがみついていたし、各地に旅行に行ったりしました。そして多くの人たちと出会いました。
でも話せば話すほど、自分の空虚さが強調されるばかりで、何の救いにもなりませんでした。
幸せは一体どこにあるのだろう?
幸せは全然キラキラしていないところにあった
何もない日々を過ごしていましたが、この時、何もないからこそ見つけられたんじゃないか?と思うようなある出来事がありました。
旅行先で訪れたある場所での出来事です。
ホットコーヒーを飲みながら私はひたすら湖を眺めていました。何も予定がなかったので、ひたすら湖を眺めていました。明日の予定も明後日の予定も何もありませんでした。
何もないことに対する漠然とした不安と何もないからこその溢れそうなほどの希望は、吐き気を催すほどに狂おしく、一方で自然と顔がほころんでしまうほど眩しく感じました。
若いからこそ、どちらに振れることもなく生きていられたのだと思います。
その時突然、今まで感じたことのないような幸福を感じました。
何とも言えない感じでしたが、「もう今この場で死んでも良い」というような、そんな感覚です。
その時のことをうまく言い表す言葉は分かりませんが、強いて言うなら、それは啓司とか悟りとか閃きとでも言うのでしょうか。
単なる着想の一つだと言うこともできますが、じゃあ誰もが同じように感じられるのかというときっとそうではなくて、その場所を見つけるまでに「幸せって何だろう?」という問いかけを何百回と繰り返し、あるかもわからないその場所を探し続けていたからこそ見つけられたのだと考えています。
この時私は、「幸せとは?」という疑問に対する、自分なりの答えを見つけました。
幸せは持っているのや地位ではない
誰でもいつでも幸せを感じることができる。
これが私の、
人生における幸福についての一つの答えです。
幸せとは持っている物や地位、称賛とかお金の先にあるものではなく、今この場にあるものだったのです。幸せとは必死で追い求めるものではなく、誰かを蹴落として手に入れるものでもなく、すぐそこにあるものだったのです。
その当時から数年経って、また新しくたくさんの経験をして、たくさんのものを手に入れてきました。その中で思うことは、何も持っていなかった頃の自分が見つけ出した幸福の定義は間違っていなかったということです。
若い頃に自分にとっての幸福を見つける
若い頃に「これだ」と思えるような幸福を探しておくと心の保険を持つことができます。
なぜなら、それが人生の指針になるからです。選択に迷った時に答えを教えてくれるからです。私が思うに、周りの人に流されてしまうとか、キャリアに迷っている人というのは、自分の幸福の定義を見つけられていないことが原因です。
自分にとっての幸福を知っていれば、自分がどんな風に生きていけば良いのかがわかります。広告マンが作り上げた幸福の定義なんて追ってたらいつまでたっても幸せになれないと思いますよ。