【絶望の朝を超えてゆけ】絶望と希望は同じくらい心地いいことに20代で気付いた

孤独な夜とか、絶望の夜とか、人が弱気になるのは夜だと、一般的には思われている。

だけど私は、本当の絶望というのは朝に感じるものだと思っている。

そんな朝が過去に一度だけあった。

カーテンから朝日が差し込んでいて、でも目はすごく冴えていて、都会のボロアパートの中で自分は世界一孤独だと思った。

お金も、仕事も、スキルも、過去の栄光も、何一つとして持っていなかった。唯一あったのは、無知がゆえの希望だった。

でもそれももう消えてしまった…

夜の街で何杯もお酒を飲んだのにも関わらず、あまりにも目が冴えていた。

人が自殺するのはきっとこんな時なのだろうと直感的に感じた。わかんないけど、人が死を迷うのは夜かもしれないけれど、それを実行するのは明け方なんじゃないだろうかと、なんとなく感じた。

脂汗が大量に出て、「あっこれはやばいやつだ」と本能的な危機感を感じた。

この日を境に、私は朝帰りをやめた。夜遊びをして終電がなくなった時も、歩いてでも夜の間に家に帰るようになった。あの日以来、一度も夜明けを目にしたことがない。

ところで人は、どんな時に絶望を感じるのだろうか?

私はどんな時に絶望を感じてきただろうか?

300記事書いたブログで1円も稼げなかった時だろうか?

自分の年収が同年代と比べて圧倒的に低いと知った時だろうか?

就活のお祈り通知を何十社からもらったときだろうか?

夜の公園で酒を飲みながら、「自分はあのホームレスと何も変わらない」と悟った時だろうか?

会社に行くお金がなくて、机にクレジットカードを並べていた時だろうか?

貯金通帳の数字が0に近づいているのに、恋人にフラれ、面接にも落ち続けた時だろうか?

お客からのクレームが続いて、指に力が入らずキーボードのキーを打てなくなった時だろうか?

ストレスで電話に出る時にうまく発声できなくなった時だろうか?

違うな。こんなんじゃ人は絶望したりしない。少なくとも私は絶望したりしない。

それはそうと、人によっては意外に思うかもしれない話がある。それは絶望というのは希望と同じくらい心地いいということだ。

そう、絶望は心地いい。

世の中にはたくさんの応援メッセージが溢れている。

「努力は裏切らない」とか「人生には楽しいこともあればツラいこともあるよ」といった類の。

こういう言葉は、絶望して落ち込んでいる人を救うと思われている。

でも本当に絶望した時には、こういう言葉は全く響かない。それどころか、絶望感を増幅させるだけだ。

本当に絶望した時には、自己啓発本の類は読めない。「頑張ればいいことがあるよ」なんて書いてあるブログも読めない。怒りも批判精神も、何もなくて、ただただ読めない、何も感じない。

ただおちていく。

ただおちていくだけ。

でもこれが、意外にも心地いい。

深夜12時に、コンビニで買ったカップラーメンとカレーを食べている時に、自分の中のうみが蠢くのを感じた。

ストロングゼロで夕方6時からはじまった晩酌は、気付けば3缶目に突入していた。

「なんか沼に沈んでいくみたいだ」

小学校の頃、よく近所の池で遊んでいた。底なし沼のような池で、進んでいないと沈んでしまった。

必死で進むのが当たり前だと思っていたけど、沈んでみると案外平気だ。

真っ黒な絶望は、キラキラと輝く希望と同じくらい心地よかった。

孤独や闇は、ふつう恐れられている。

孤独や闇を恐れているから、みんな誰かと一緒にいたがる。恐怖を避けるためなら、好きなものを食べられないとか、経済的にキツイといったことに目を背けてまでも、誰かと一緒にいたがる。

孤独な夜を過ごすくらいならと、好きでもない人と暮らしたり、お金を使って夜の街で遊んだり、部下におごったりする人たちもいる。

だけど知っている人は知っている。

孤独や闇夜は、希望の光と同じくらいあたたかくて心地いいことを。

絶望は、生と死との間にある緩衝材のようなものだと思う。

でなけりゃ、あんなにもあたたかくて気持ちいいはずがない。

「機械のように心を捨てて生きたほうが楽だ」と時々思うことがある。

ふつうに会社で生きられる人達が羨ましくなる時もある。

上司に媚びをうって、方向性のずれた会議で無難な発言をして、仕事帰りに飲みに行く。

社内恋愛をして、結婚して子どもができて、マンションを30年ローンで購入する。

持ち家は叩かれることも多いけど、好きな人と、そしてその人との間にできた子供と一緒なら、そんなに悪くないと思う。あとはペットがいたら言うことなしかもしれない。

そういう絵にかいたような幸せも悪くないと思う。

でも一方で、そういうふつうの幸せを手に入れるのは思いのほか難しい。

なぜふつうの幸せを得るのは難しいのだろう?

両親という見本があり、身近な人たちだってそういう生活を築いている。それなのになぜ自分にはそれが難しいのだろう?と何度となく考えた。

自分の心が、それを難しくしているのだろうか?

それとも、日本という国ではもはやふつうの幸せを得ることができないのだろうか?

どちらのせいでもあるのかもしれない。

たしかに、自分の心がふつうの幸せを拒んでいる面はある。

知らない世界を知ってしまった。

好奇心が人よりも少し強かったがために、知らない世界を知ってしまった。

95%の人たちが汗水たらして嫌々働いている陰で、昼間っから美人な女性とデートする人たちがいる。

急な思い立ちで海外に行くことができる人たちがいる。

非の打ち所がないくらい美人な女性がこの世にはいる。そしてふつうの生活をしていたらそういう人には出会えない。

湖を見ながら平日の昼間から飲むコーヒーの香り

高級ホテルのバイキングのポテトサラダ、100%オレンジジュース

高級すし、もつ鍋、溶けるほど柔らかい牛肉

大学を卒業したばかりの頃の私は、そんな世界を知ってしまった。

それまで知っていたのは、朝から夜まで働いて、そして月末に会社から給料をもらう、そんな世界だけだった。

大学生の頃に見ていた社会人は、いつも夜の街で我を忘れて飲んだくれていた。クラブではスーツを着た会社員がテキーラを片手に騒いでいた。「テキーラなんてクッソまずいのになんであんなもの飲むのだろう?」と思ったりした。

その理由がわかるのは社会人になってからだった。

社会人になって、やっぱり会社は思った通りの場所だった。いや、想像通り以下だ。想定の以下の以下くらい。退屈で、無駄が多くて、時間の浪費にしかならない。

そこにいるというだけでお金を稼いだ。8時間イスに座っているというのが、会社員としての私の役目だった。

しばらく働くうちに、自分が生きているのか死んでいるのかすらわらかなくなった。わらかなくなってしまうくらい、社会は退屈だった。

だから会社を辞めた。

お金持ちになりたいから?

幸せになりたかったから?

まぁそれもある。

だけど20代前半の頃に、人は幸せになることはできないということに気付いてもいた。たしか23歳の頃だったと思う。

お金持ちになっても、世界一好きな人と結婚しても、どんなにかわいくて良い子に恵まれても、人は幸せになることはできないのだと知った。

なぜなら、人は他人や環境の影響を必ず受けるからだ。

自分が世界一の金持ちになったとする。でもたとえば、世界中のお店がなくなってしまったとする。そしたら、お金なんてなんの意味もなくなる。

自分が毎日運動して健康に気を遣って生活したとする。そして仮に100歳まで生きたとしよう。自分はそれでいいかもしれない。だけど長く生きる分、自分の身近な人やペットの死を何度も経験することになるだろう。

静かなカフェで読書をしながらコーヒーを飲んでいたとする。悲しい事件がスマホのニュースから目に入ったら、きっとその後の文章は目に入らなくなる。

だから気付いた。人は幸せになることはできない。

この意味に気付いた時、嫉妬や足りないという気持ちは少し和らいだ。

良い意味で、肩の力を抜いて生きられるような気がした。

世の中の多くの人たちは、今日もありもしない幸せを求めて足掻いている。

恋愛対象は年収1000万円以上希望

役員までのぼりつめて年収3000万を目指す

カッコよくなければいけない。可愛くなければいけない。

幸せにならなければいけない。

「今日は仕事で嫌なことがあった。やっぱり転職しよう」

「仕事でミスした。これじゃお金持ちになれない」

今幸せじゃないから、どこかにある幸せを探さないといけない。そしてそこにたどり着いたら、きっと毎日が幸せに違いない。

でも本当はそんな場所はどこにもない。その事実を知った。

じゃあそれなら何を求めて生きていけばいいのだろう?

答えは今だ。今この時だ。

成功にしても、幸せにしても、それはたぶん「なる」という性質のものではない。

芸能人が泥沼の離婚劇を繰り広げていたりするだろう?あれなんかは、人は幸せになることはできないという典型だ。ルックスがよくても、肩書があっても、金があってもダメなんだ。

そんなものでは人は幸せになれない。

某芸人の六本木ヒルズでの不倫劇が話題になって、「あんなに美人な奥さんがいるのに…」という人たちがいるけれど、こういう考えは、幸せは「なる」ものだと思っている人たちの考え方だ。こういう人たちは、何かが手に入れば、お金や名誉が手に入れば幸せになれると思っている。そしたら死ぬまで幸福が続くと思っている。

でも人生には、それを取ったらゲームクリアというようなラッキーアイテムはない。わかりやすいラッキーアイテムは、スーパーマリオのスターのようなものだ。その時は、自分が無敵に思える、その幸福が永遠に続くように思える。でもスターはいつか切れる。切れなかったら、たぶん落っこちて死ぬだろう。

あるいは、永遠と続くスター状態というのは、ひどく退屈だろう。

長い人生の中で、スターを取れる時もある。たまたま頭上に落ちてくることもあれば、リスクを取って取りに行く必要がある場合もある。

その時人は、きっと自分が無敵になったように感じる。ホテルの最上階のバーでお酒を飲んでいる時や好きな人との初デートの時、ボーナスが入った時、子どもが産まれた時なんかは、人は自分が無敵になったように感じる。そして幸せを感じる

それ自体は悪いことじゃない。その幸せに浸るのは悪いことじゃない。でもそれはあくまでも一時的なスター状態だってことを理解しなければならない。

そうじゃないと、どこにあるのかも、本当にあるのかもわからないものを求めて、過労死するまで働いたり、婚活市場のベテランになってしまったりする。

前提として、生きることそのもの、今この瞬間に呼吸しているというその事象に対して、希望と絶望の2つの解釈が常にあることを理解する必要がある。生とは天国の娯楽のようなものであり、一方で地獄の罰のようなものでもあると知らなければならない。

そしてその2つの側面は、思考という各個人の脳のプログラムによって仕分けされている。

Aさん

if (所持金<10万円){

alert(“人生は地獄”)}

else{alert(“人生は天国”)}

Bさん

if (所持金>0万円){

alert(“人生は天国”)}

生とは、希望であり、一方で果てしなく続く絶望でもある。

あなたには今どんな景色が見えていますか?

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