ふたたび、「葛西臨海公園」で人生について考えてみる

また、葛西臨海公園に来てしまった。

夜景はやっぱり、
自然のほうが良い。

ホテルから見る夜景は上品で神秘的だけど、ニオイやロマンがない。

まぁ、フナムシが新幹線並みのスピードであたりを動きまわっているから、デートなら、高級ホテルのほうが良いかもしれない。

でもひとりなら、
自然のほうが良い。

六本木のスカイデッキから見る夜景も、横浜のスカイガーデンから見る夜景も綺麗だけど、どれも海にはかなわない。

展望台からの景色はたしかに綺麗だけど、不自然に整いすぎている。

潮のにおいや、
風が重要なんだと思う。

何が起こるかわからないドキドキ感が重要なんだと思う。

このスリルは、
展望台やホテルでは味わえない。

シティホテルの夜景を見て、「あれ、なんか思ったより感動しない」と思った人は、パソコンを家に置いて海に行ってみるのが良いかもしれない。

田舎育ちだったり、アウトロー的な気質があるなら、きっとホテルの夜景よりも、海辺の方が楽しめる。

そういえば、一昨日、フナムシの夢を見た。

フナムシが部屋の中を動きまわっている夢で、深夜に目が覚めてしまった。

ふつうにこわい。

大人になると、
いろいろなことが心配になる。

頭上を飛んでいるコウモリに何かされないかなとか、フナムシがバッグに入り込んでいて、家に連れて帰っちゃったらどうしようとか。

コウモリは頭がよさそうだから、
頭上から石を落としてくるかもしれない。

もっと現実的なところで言うと、地元の不良に絡まれないかなとか、ゲリラ豪雨にあわないかなとか、心配事が多くて嫌になる。

きっと子どもの頃だったら、そんな心配事よりも、「あの光の場所に行ってみよう」と思ったはずだ。

些細な心配事よりも、好奇心や冒険心のほうがずっと強かった。

きっとみんなそうだろう。

愛想笑いでお疲れ気味の女性社員も、すっかりと頭頂部が薄くなってしまった課長さんも、きっとみんな、かつては夢と希望にあふれていたはずだ。

でも今は、あの光に向かってみようとすら思わない。

行こうと思えばいくらでも行ける。

歩いていく時間はあるし、タクシーを使えばもっと簡単に行けるだろう。

「歩くと疲れるし」と思うなら、なんならあの光の場所にあるホテルに泊まってもいい。

選択肢はいるくらでもあるし、どれも実現しそうだけど、「よしっ行ってみようか」という気にならない。

大人になるっていうのは、億劫になるっていうことなのだろうか?

いや、そんなはずはない。

学校の先生は「きみたちは何にでもなれる」と言っていたし、まわりの大人は「大人になると楽しいことがたくさんあるよ」と言っていた。

少し背伸びをして「ジンジャーエール」を飲んだ時、口の中ではじけたのは、爽快な泡だった。

目の前に広がる未来は、
どこまでも明るかった。

腹を割って同級生と話したことはなかったけれど、きっとみんな同じ気持ちだったに違いない。

でも大人になると、ほとんどの人たちはあの光の先に行ってみようとは思わなくなる。

「明日も朝早いから」とか「ヒールだから厳しい」とか、現実的な問題もあるだろう。

でもそれ以上に、「どうせ行っても大したことないよ」とか「そんな子どもみたいなこと」とか、そういう気持ち的な要因が大きいのだと思う。

どこでどうなったのかはわからないけれど、子どもの頃にはたくさんあったはずの「夢」や「希望」は、大人になると剥ぎ取られてしまう。

実は、幸せとかチャンスとかは、あの光のように、驚くほど近くにあるものなんじゃないかと思う。

でもみんな、「めんどくさい」とか「つかれた」とか言って、そこに向かっていないだけなんじゃないかな。

でも一方で、幸せを追い求めて、毎週のように婚活パーティーに参加したり、出世のために深夜まで働いたりする人たちもいる。

彼らは必死で幸せを追い求めていると言えるだろうか?

たしかに追い求めていると言える。

でも果たして、彼らのうちどれくらいの人たちが、その先で幸せをつかんだのだろう?

「あの光の場所に行ってみたい」と思うのは好奇心のなせる技だけど、一方であの光を、幻想と捉える見方もある。

キラキラと幻想的に輝いているから、みんな「そこには何かがあるに違いない」と考える。

でもそこにたどり着いてみると、そこにあるのはたくさんのガイコツだったというのは、まるで東京という場所全体についても言える。

「あの輝いている場所に行けば自分もライトアップされるはずだ」とみんな考える。

そう願って、
若い人たちは東京に集まる。

でも一体、そのうちの何人が描いた通りの自分になれたのだろうか?

どこか遠くの光を見る時、その光の先からこちらを見ている人もいるのだと考えなければならない。

相互に人は見られているわけだ。

光を発している人たちは「こっちに来ると良いことがあるよ」と言って、あの手この手を使って、人工的なライトをキラキラと光らせる。

その光を見た人たちは、「あの場所にはきっと幸せがあるに違いない」と思い込む。

「どうやったらあの場所に行けますか?」と若者は尋ねる。

ある人は「船に乗ればいい」と言う。

別のある人は、「こういうルートで歩いていけばいい」と言う。

光の場所にたどり着くための情報には価値が生まれ、お金が生まれる。

船や途中の休憩所には人が集まり、お金が生まれる。

そしてそのお金は、エサという名の光を灯し続けるために使われる。

同じことが繰り返されてきたし、きっとこれから先も繰り返されていくだろう。

仮に、もしもあの光が幻想だとするならば、人が幸せになる方法は、「目の前の景色を楽しむ」か「プロセスそのものに価値を見出す」かの2つだ。

観覧車が暗闇のなかで光っている。

人生のバイブルである、かとうちあきさんの『野宿入門』にならって、公園で一晩を明かそうかと考えてみる。

スキルなし、金なし、職なしの時代に、「自分はホームレスと何も変わらない」と知ったから、公園で寝ても別に良いかなと思う。

閑話休題。

「生活感がない」「悟りを開いている」と人から言われることがある。

生活感がないのは、きっと大人になった今でも、光の場所に向かって歩いているからなのだろうと思う。

好奇心があるとか、野心家といった評価もできるけれど、一方で、足が地についていないとか、大人気ないといった見方もできる。

悟りを開いているように見えるのは、その光が幻想だと知っているからなのだろう。

聡明だと見ることもできるけれど、一方で、ひねくれていると捉えることもできる。

矛盾した2つの行為を正当化するには、「目の前の景色を楽しむ」「プロセスそのものに価値を見出す」という2つの鍵が必要だった。

自分には価値がないと知っていて、でもそれでも生きていかなければならない人生に縛られた時、呼吸をし続けるために2つの鍵が必要だった。

きっとみんな、いろいろな考えを持っていて、自分に折り合いをつけていくのだろう。

よくわからない鳥が、頭上で「ギャーギャー」騒いでいる。

昔の人たちはきっと、自然の何かを、お開きの合図につかっていたはずだ。

ところで、もうフナムシをこわいと感じなくなった。

フナムシが見えなくなるくらい、
もう暗くなっていた。

だから家に帰ろう。

海はたまに見るから良いのであって、毎日見ていたら、通勤電車のつまんない風景と同じになってしまう。

グッバイ フナムシ
また会う日まで。

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