将来のことを考えると、息が詰まるような気持ちになる。
社会に出てから、そんな感覚を何度も経験してきました。
大学を卒業しても就職がうまくいかず、既卒という立場に取り残されていた頃の私は、将来を想像するのが怖くてたまりませんでした。
「このまま時間だけが過ぎていくのではないか」
「何者にもなれないまま人生が終わってしまうのではないか」
そんな不安で夜も眠れない日が続きました。
この記事は、同じような不安を抱えている方に向けて書いています。
答えが見えなくても、一歩ずつ前に進むための考え方を、私の体験を交えながらお伝えできればと思います。
「大丈夫」と言い聞かせるために、筋道を立てる

自分に「大丈夫と言い聞かせている」と言うと、気休めのように思われるかもしれません。
でも、私にとっての「大丈夫」は、根拠のない楽観ではありません。
たとえば、もし今の仕事を失ってしまったとしても、
- 失業給付を申請すれば、一定期間の収入は確保できる
- 家賃を抑えるために、一時的に実家に戻る選択肢もある(シャアハウスや簡易宿泊所もあり)
- 資格の勉強を続けていて、それを活かして転職活動を始めることもできる
こうした道筋を、自分の中で具体的に整理しておくことで、「たとえ何かが起きても大丈夫」という安心感につながります。
不安が強いときほど、最悪の事態を想定し、それに対してどう備えるかを冷静に考えてみる。
それが、未来への漠然とした恐怖に対抗する、一つの手段になると思います。
覚悟を持つために、「死」と向き合うということ

将来が不安になるとき、人は「最悪の事態」に備えることを考えます。
その“最悪”の延長線上にあるのが、「死」という存在かもしれません。
私はもちろん、死を経験したことはありません。
本当の意味で理解することもできていません。
ただ、これまでの人生で、いくつかの出来事が私の「死生観」に影響を与えてきました。
たとえば、小林麻央さんの訃報を知ったときの衝撃。
病と闘いながらも、ご家族や読者に向けてメッセージを発信し続けた姿に心を打たれました。
幸せそうに見える人にも、避けられない現実があることを知った瞬間、
「何かを手に入れれば、人生は安泰だ」という幻想が自分の中で崩れていきました。
また、スティーブ・ジョブズのスピーチに出会ったことも、私に大きな気づきを与えてくれました。
人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。ほとんどのことが—周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖など—そういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむものです。人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。
『Steve Jobs』ウォルター・アイザックソン/井口耕二訳 288p 講談社
「死を考える」と聞くと、重たい響きがあるかもしれません。
ですが私は、「死」を見つめることは、むしろ生き方を明確にすることだと思うようになりました。
何かを失うことの恐れや、人からどう思われるかという不安は、
「この人生には終わりがある」と意識すると、少しずつ薄れていきます。
周囲の声に振り回されるより、自分の思いや価値観を優先したい。
日常の中で、後悔を積み重ねないためには、
やりたいと思ったことを先送りせずに行動に移すことが大切だと考えるようになりました。
- 会いたい人には会いに行く
- 興味を持ったことには挑戦してみる
- 耐えられないくらい辛い仕事なら辞める
私自身、過去に仕事で疲弊していた時期がありました。
「このまま続けたら、自分が壊れてしまうかもしれない」と感じながらも、
辞めることが怖くて、なかなか一歩を踏み出せませんでした。
でも、「人生には終わりがある」と思ったとき、「だったら、自分の時間を納得できることに使いたい」と、ようやく思えるようになったのです。
既卒ニートでも、公園で泣きながらお酒を飲んだ日々も、あっても大丈夫

「なんとかなる」「大丈夫」という言葉には、軽く聞こえる印象があるかもしれません。
けれど私自身、その言葉に少しずつ実感を持てるようになったのは、自分の中に“根拠”となる経験が積み重なったからだと思っています。
最近読んだ本で、デザイナーの佐藤オオキさんが、公園で暮らす人と時間を過ごした経験から、「どんな状況になっても大丈夫と思えるようになった」と語っていて、すごく共感しました。
人は、何かを失った経験や、底に近い場所に触れたことがあるからこそ、逆に揺るがない感覚を得られるのかもしれません。
たとえば、著名な実業家やリーダーたちも、多かれ少なかれそうした“挫折”や“停滞”を経験してきています。
順風満帆に見える人の背景にも、目に見えない葛藤や過去の傷がある。そう知ることで、自分だけがつまずいているわけではないと気づけます。
私自身も、既卒で就職できなかった時期に、人生で初めて大きな挫折を味わいました。
まわりの同年代が初任給で何を買うかを話している一方で、私はスマホで「既卒 人生終わり」と検索していたことを、今でもよく覚えています。
「公務員になれば安定だ」と言われて試験日程を調べたり、「大学院に進めば道が開ける」と思って入学案内を調べたり。
それでも、将来が見えない不安から抜け出せず、出口のないトンネルにいるような感覚が続いていました。
ニートとして1年以上を過ごしたあと、ようやく就職することができましたが、働き始めた職場でもうまくいかず、心が限界に近づいたこともあります。
うつ病と診断される一歩手前の状態で、毎朝布団から出るのに時間がかかり、「自分は社会に向いていないのかもしれない」と何度も思いました。
また、辞めた後にインターネットで稼ごうと思ったものの失敗し、貯金が尽きかけ、夜の公園で「人生もう終わりだ」と缶チューハイを飲んだこともあります。
けれど今振り返ると、その時期があったからこそ、自分の内側に「何があっても、また立ち上がれる」という小さな確信が生まれたのだと思います。
人は誰でも、過去の失敗や挫折に救われる瞬間がある。
今、不安を感じている方がいたら、その感情を否定する必要はありません。
けれど、「不安を抱えながらも立ち直った人がいる」という事実は、きっと力になるはずです。
頑張っても報われないときは、無理に足掻かなくてもいい

先が見えないと感じるとき、それは多くの場合、社会や自分自身の状況が不安定なときです。
逆に、すべてが順調で心に余裕があるときは、「不安」という感情そのものをあまり意識することはありません。
たとえば、
- 思いがけず仕事を失ったとき
- 内定が決まっていたはずなのに取り消されたとき
- 面接に落ち続けて自信をなくしたとき
- 貯金が底をつき、生活が立ち行かなくなったとき
こうした状況にあるとき、「頑張ればどうにかなる」とは思えなくなるものです。
私自身も、そうした時期を経験したことがあります。
何をしてもうまくいかず、「自分だけが取り残されている」と感じていた日々。
そのとき思ったのは、「足掻くことが必ずしも最善ではない」ということでした。
ドン・キホーテ創業者安田隆夫さんの著書にこんな過去の経験が書かれています。
その頃の私のライフスタイルは、徹夜麻雀をして朝帰りし、夕方にまたゴソゴソ起き出して雀荘に出かけていくという、自墜落を絵に描いたような毎日だった。
もっとも、当時のそんな体験が、のちにドンキの仕事で大いに役立つことになる。
うらぶれた気持ちで夜の繁華街をあてどなくさ迷いながら歩いた経験から、私には夜の街を漂流する若者たちの気持ちが痛いほど良くわかる。深夜市場の開拓や、ひとりで夜の街を徘徊する人々の心の襞に触れるドンキ流マーケティングが確立できたのは、当時の体験あってこそだ。
『安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生』安田隆夫 30p 文春新書
人生には、どんなに努力しても結果につながらない時期が存在します。
そういう時は、無理に動こうとせず、「待つ」という選択肢を持つことも大切です。
動けない自分を責めるのではなく、少しずつ力を蓄える期間と捉えてみる。
波が来ない時に無理に泳ぐのではなく、次の波が来たときに、しっかり乗れるように準備をしておく。
そのほうが、結果として遠くまで進めることもあるのです。
耐える時間も、必要なプロセスだと思う

人生には、自分なりに頑張っていても、うまく軌道に乗らない時期があります。
何をしても報われないような感覚に陥ると、「もう何もかも終わりなのではないか」と感じてしまうこともあるかもしれません。
私にも、そんな時期がありました。
学生の頃は、漠然と将来に期待を抱いていました。
卒業後は銀行に勤めて、良い出会いにも恵まれて、穏やかな家庭を築けたらいいな…そんなイメージです。
ところが、実際の私が迎えた現実は、まるで別のものでした。
就職先は決まらず、貯金もなく、社会との接点もほとんどない。
何を話せばよいかもわからず、面接にも連戦連敗。
最低限の生活費を稼ぐためにはじめた工場のアルバイトでは、一日中ベルトコンベアの前に立って、ひたすら商品を流し続ける日々が続きました。
夢や希望とは無縁の、静かで単調な時間のなかで、心がすり減っていくのを感じていました。
やがて、現実から目を背けるように、私はお酒に頼るようになりました。
けれど、そのときもどこかで「このままではいけない」と感じていたのだと思います。
そんな中で学んだことがあります。
「落ちるときは、あえて“再起できる範囲”で落ちること」も、生き延びるための戦略だということです。
たとえば、
- お酒を飲むこと自体を完全に否定はしないけれど、依存症にならないよう距離を保つ
- 引きこもる日々があってもいいけれど、その間に何か一つでも学びを持つ
実際、私はお酒を飲んでいた時期に、アルコールに関する資料や依存症の体験談を読み漁っていました。
「これはただの嗜好品ではなく、薬物と本質的には変わらないものなのだ」という理解が、自分を客観的に保つ助けになった気がします。
カフェインやニコチンと同じように、アルコールも使い方を間違えれば簡単に依存を招きます。
でも、その仕組みや性質を知っておけば、自分自身との付き合い方も見直すことができます。
私にとって、この「理解」が一種の“保険”になっていました。
どれだけ落ち込んでも、「まだ戻れる」と思える状態をキープしておくこと。
それが、次に立ち上がるための支えになります。
逆に言えば、再起できなくなるのは、
落ちるときに「備え」や「逃げ道」を用意していないときなのかもしれません。
落ちること自体が悪いのではありません。
むしろ、無理に踏ん張り続けて心が壊れてしまうほうが、よほど怖いことだと思います。
だからこそ、自分の限界を知り、「ここまでは落ちてもいい」というラインを引いておくこと。
意図的に“安全な場所まで下がる”ことで、自分の心を守るという考え方も、私は肯定したいと思っています。
コントロールできることに集中する。それ以外は捨てる

将来のことを考えると、不安が膨らんでしまう。
そんなとき、少し気持ちが落ち着く考え方があります。
それは、「自分にコントロールできることに意識を向け、それ以外は一度手放す」ということです。
世の中には、自分の選択で変えられることと、どう頑張っても変えられないことがあります。
たとえば、今日どんな服を着るか、どんな食事をするかは自分で選べます。
でも、天気や為替、社会の情勢といった大きな出来事は、私たちの意思では動かせません。
それにも関わらず、ニュースやSNSなどを通じて、私たちは日々「自分ではどうしようもないこと」に多く触れています。
そのたびに不安になったり、疲れたりしていることに、気づいていない人も多いかもしれません。
もちろん、社会全体の動きや世界情勢を知ることには意味があります。
職業や立場によっては、それが重要な情報源になることもあるでしょう。
けれど、もしあなたが今、不安で気持ちが不安定になっているなら、「一人で抱え込まなくてもいいこと」にまで意識が向いてしまっていないかを、少し立ち止まって見直してみてください。
たとえば、テレビのニュースを見すぎて気持ちが沈んでしまうなら、いったん距離を置いてみる。
周囲の意見に振り回されすぎていると感じたら、自分の考えに戻ってみる。
人には、情報や感情を処理できる“容量”があります。
すべてを受け止めようとすると、心が疲れてしまうのは当然です。
ですから、自分が関わることができる範囲、今日の行動、目の前の一歩に意識を戻してみる。
そんなふうに日々を整えていくことが、将来に向けての安定した土台になります。
未来を完全に見通すことはできません。
でも、「今日できることを丁寧に積み重ねていく」ことは、今この瞬間から誰にでも始められることです。
不安なときほど、自分の手の届くこと”に集中することが、気持ちを取り戻す一歩になります。
最高の未来と最悪の未来を想像する

「とは言ってもやっぱり未来のことが気になってしまう」という方も多いと思います。
世界情勢といった未来を正確に言い当てることは不可能ですが、予測することは可能です。そして予測に基づいて人生をシミュレーションすることも可能です。
たとえば、どこかの国がミサイルをいつ撃ち込んでくるかはわかりませんが、撃ち込んでくる可能性を想定することは可能です。先が見えずに不安という状態は、言葉通りになりますが、先が見えないから不安なわけです。
であれば、未来を予測してしまえば、ある意味先を見通すことにもつながります。
でもだからと言って、根拠のない占い師のように「きっとよくなるでしょう」といった予測では意味がありません。それは単なる現実逃避です。
未来予測をするうえで大切なことは、複数のパターンを持つことです。
未来予測というのは、
正確に言い当てるのは不可能です。
それはハーバード大学の教授であっても、大統領であっても同じです。
たとえば過去に破たんした伝説的な投資集団LTCM(ロングターム・キャピタルマネジメント)には、マイロン・ショールズ(ブラック=ショールズ・モデルの構築者)、ロバート・マートンという天才経済学者が在籍していました。
世界経済に多大な影響を与えたリーマンショックのことの発端は、米国の有名なリーマンブラザーズという証券会社でした。
天才が集まっても、
未来を正確に言い当てることはできません。
ではどうやって先を見通すかというと、上にも書きましたが、複数パターンの予測を持つことです。
わかりやすいのが、「うまくいった時のパターン」と「うまくいかなかった時のパターン」の2つの未来のシミュレーションです。
とくに、何かに挑戦する時というのは、この2つのシミュレーションに基づいてあらかじめ準備をしておくと、挑戦に対するハードルがすごく低くなります。
たとえば、会社を辞める場合のシミュレーションです。
【うまくいった時のパターン】
退職後は旅行したり、勉強したりして、少し自分の時間を持ちたいと思っている。
→一通りやり尽くした後に、勉強していた分野で転職→転職成功→給料アップ/素晴らしい仲間に恵まれる
【やること】
- 予算の配分
- スケジュール計画を立てる
- 入りたい分野の会社について調べる
【うまくいかなかった時のパターン】
退職後に旅行したり、勉強するまでは計画通りだが、「勉強が思った通りに進まない」「資格試験などに落ちる」などが発生。
【やること】
- うまくいかなかった時のパターン用の予算配分を考える
- 転職活動を早めに始める
- 自分のスキル・資格などを棚卸して働ける可能性の高い職種を探しておく
- 家賃など、固定費をあらかじめ減らしておく
- 副業収入を得ておく
うまくいった時のパターンに関しては、思い描いていた通りに進めば良いので何か特別な準備が必要なわけではありませんが、うまくいかなかった時のパターンの場合には、シミュレーションに応じて、様々な準備が必要です。
結果として2つのパターンがシミュレートできたわけですが、実際の行動は、楽観論・悲観論どちらに転んでもいいように行動します。
これは先に述べた「保険をかける」と同じような考え方ですが、保険をかければかけるほど見えない未来や挑戦に対する恐怖は減少していきます。
自分を棚卸して安心感を持つ

保険をかけるというところに関連して言えば、自分のスキルや資格、経験を棚卸することで、見えない未来に対する安心感を持つことができます。
たとえば、
以下のような棚卸しができます。
- 学歴
- 経験
- 貯金
- ルックス
- 家計
- 若さ
人にはそれぞれ強みになる部分、そして、かつ生きていくために活用が可能、または社会で必要とされるスキルや資格、経験などがあると思います。
たとえば何の資格も持っていなくても、「若さ」があればなんとかなります。若さはお金ではかえないスーパーチケットなので、市場価値はものすごく高いです。
たとえばルックスが良いというのも強みです。
「最悪全て失っても、YouTubeとかで顔出しで稼ぐか」といったことでも、安心感につながります。
不安な世の中で強く生き抜くための具体的な方法

さいごに具体的な行動の話をして終わりたいと思います。不安な世の中で生きていくために大切なことはいくつかありますが、その一例として私が日々意識していることは次のことです。
- テレビは見ない
- 人の話は聞かない
- 自分の頭で考える
- 信じる人を選ぶ
詳細を書きます。
テレビは見ない
私は普段テレビを見ません、
というか所有していません。
なぜかというと、
テレビには雑多な情報があまりにも多いからです。
たとえばニュース一つとっても、必ずしもそのニュースは真実をありにままに放送しているとは言えません。
視聴率を維持するためにキャッチーに加工されていたり、一方の側面だけに光を当てた報道がされたり、基本的にメディアという存在には、カメラ・編集を通す時点ですでにフィルターがかかっています。
たとえばバラエティー番組のやらせが発覚した時に驚く人はいますが、むしろ私は、やらせじゃない番組が存在するほうが驚きです。
また、テレビには不必要に不安を煽ったり(おそらく悪気はありません)、あるものを実態以上に良いものに見せようとする側面があります。
私がテレビを見ない一番の理由は「時間の無駄」だからですが、「情報」の面から見ても、テレビが生活に必要だとは思えません。
すべての言葉を鵜呑みにしない
社会が不安定なときや、自分自身が迷っているときほど、周囲の声が気になりやすくなります。
ですが、そんなときこそ「誰の話を、どこまで聞くか」を慎重に選ぶことが大切だと感じています。
情報があふれている時代だからこそ、「不安をあおる声」「根拠のない意見」「断定的なアドバイス」に無防備に触れてしまうことがあります。
たとえばSNSで目にする断片的な言葉や、テレビ番組で語られるもっともらしいコメント。
それらが、自分の感情や判断を知らず知らずのうちに揺さぶっていることも少なくありません。
私が既卒で就職できなかった時期、
スマートフォンで「既卒 人生終わった」と検索したことがあります。
ネット上には「既卒になったら終わり」というような言葉がいくつも並んでいました。
それを読んだ瞬間、「やっぱ自分はもうダメなのか」と、さらに落ち込んだのを覚えています。
でも、よく考えてみると、
そういった言葉を発信している人は誰だったのでしょうか?
- 実際に同じ境遇を経験している人かもしれません
- ただの匿名の投稿かもしれません
- あるいは、就職支援サービスの関係者が不安を煽っている可能性もあります
そうだとしたら、その言葉は必ずしも全てが“自分自身にあてはまる真実”ではないはずです。
また、もっと身近な場所でも似たようなことがあります。
たとえば、会社を辞めたいと悩んでいるときに、「どこに行っても同じだよ」と言われたり、新しい挑戦をしたいと話したときに、「やめたほうがいい」「無理だよ」と否定されたり。
こうした言葉が、結果的に自分の可能性を狭めてしまうこともあります。
もちろん、全ての意見を否定する必要はありません。
ただ、その言葉の「背景」や「意図」を一度立ち止まって考えてみることは大切です。
- その人自身が過去に失敗した経験からそう言っているのかもしれない
- 心配してくれている気持ちが強すぎて、否定的になっているのかもしれない
- あるいは、その人には自分の状況が正確には見えていないのかもしれない
私自身、中学生の頃、担任の先生に「その志望校は無理だろう」と言われたことがありました。
でも、努力を重ねて最終的に合格することができました。
その経験が、
「誰かの判断が、自分の可能性を決めるわけではない」と教えてくれました。
他人の意見に耳を傾けすぎると、自分の感覚が見えにくくなります。
だからといって、完全に耳をふさぐということでもありません。
大切なのは、「この人の言葉は、自分にとって本当に必要だろうか?」と問いかけてみること。
そのうえで、自分自身の頭で考えることです。
未来に迷ったときほど、“信じるべきは外の声ではなく、自分の内側の声”かもしれません。
自分の頭で考える
情報を収集する時に大切なことは、
自分の頭で考えることです。
- メディアが発信するニュースの焦点の当て方について考える。
- 友人の発言の意図を考える
- 芸能人やインフルエンサーの発言の意図を考える
- インターネットの情報の真偽を考える
- 投資家の発言がどの市場に影響を与えるのかを考える
ニュースで数字などのデータを見る時に気を付けなければならないことは、数値の切り取り方やグラフデータの作り方です。
グラフ類は加工が簡単なので、
とくに気を付けたほうがよいです。
自分の頭で考える習慣をつけることができれば、多数派よりも一歩先に行動することができますし、たとえばSNSなどの情報にまどわされることもなくなります。
信じる人を選ぶ
情報があふれる時代にあって、私たちは毎日、たくさんの声に触れながら生活しています。
その中には、親切な助言もあれば、意図の読めない言葉、時には不安を煽るだけの意見もあります。
だからこそ、「誰の声に耳を傾けるか」を、自分で選ぶことが大切だと感じています。
私は基本的に人生に関わるような決断を人任せにはしません。
意見を聞いたとしても、9割以上の人の意見はあくまで「参考程度」にとどめます。
その代わりに、自分の中で「この人なら信頼できる」と思える存在を一人でも持つようにしています。
それは必ずしも身近な人である必要はありません。
直接会ったことがなくても、著書や言葉を通じて強く影響を受けた人物でも構わないのです。
不安定な時代には、誰かの強い意見や集団の熱量に巻き込まれそうになることもあります。
けれど、外の声に流されるのではなく、自分が納得して選んだものを信じる。
それが、自分自身を守るための軸になります。
人でも、本でも、考え方でもいい。
迷ったときに立ち返れる“信頼できる何か”を、自分の中に持っておくこと。
それは、この先を安心して歩いていくための心の支えになります。
おわりに
世界は常に変化し続けています。
そのスピードは私たちの想像を超えるほどで、気づけば「昨日の当たり前」がもう通用しなくなっていることもあります。
ただ、それはこれまでの歴史でも同じだったはずです。
今だけが特別に不安定な時代というわけではなく、私たちは常に「見えない未来」の中を生きてきたとも言えます。
だからこそ、目の前のことに集中し、自分自身と向き合いながら、一歩ずつ前に進むことが大切なのだと思います。
この記事では、将来が不安で仕方ないときに、どう心を整え、どう生きていくかについて書いてきました。
すべての人にとって正解となる方法ではないかもしれません。
けれど、もし今、同じような不安を抱えている方がいたなら、何か一つでも参考になることがあれば幸いです。
未来は完全に見通すことはできません。
でも、今日を丁寧に生きることで、明日が少しだけ軽くなることはあります。
自分のペースで大丈夫です。
これからも、一歩ずつ前に進んでいきましょう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。